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わかりやすい漢方薬解説・漢方理論解説

漢方医学を築いた先人たち (3)

室町時代以降、日本の医学は金元医学の影響を大きく受けながら発展しました。この金元医学を治療の中心に据える後世方派が隆盛を極めた時代でもあります。その一方で江戸時代中期になると後世方派の理論を重視する流れに疑問も提起され始めました。さらに江戸時代の後期、鎖国の時代から開国を経て医学の世界にも未曾有の変化が訪れます。


吉益東洞(よしますとうどう)


いつの時代もある一方向にベクトルが偏ると、それを軌道修正しようとする動きが働きます。まさにそれが起こったのが江戸時代中期、理論に拘泥する医学よりも実践的な治療を重視するべきという運動が巻き起こります。


その運動の中心にいた医師の名古屋玄医(なごやげんい)は治療方針を後漢時代に張仲景が著した傷寒論と金匱要略に求めます。傷寒論などへの回帰に賛同した治療家集団は自分達を古方派と称し、金元医学を基調とする者たちを後世方派として差別化を図ります。


この古方派の中でも異質な存在感を放つのが吉益東洞(1702~1773)です。吉益東洞はすべての病気は体内に潜む毒が起こしており、その毒の位置によって病態が異なるという「万病一毒説」を提唱しました。


治療にはこの毒を排除するべく薬効の強い生薬を多く用いたといわれています。まさに「毒をもって毒を制す」という治療法です。もともと吉益東洞は医師を志す前は武道で身を立てようと考えていました。このような背景は非常に攻撃的で、金元医学とは相反する吉益東洞流の治療スタイルの源泉なのかもしれません。


くわえて吉益東洞は後世方派の唱える陰陽五行論などの諸理論を完全に否定する一方、腹診を治療の核とするなど独自色を発揮します。さらにシンプルに患者に現れている症状からどのような処方が合うのかをまとめた類聚方(るいじゅほう)や、生薬個々の働きを論じた薬徴(やくちょう)は高い評価を得ました。


吉益東洞の思想や治療法はあまりにラジカルな面もありますが、以後の日本における漢方医学の方向性を決定付けるほどの実用的魅力を含んだものでもありました。


山脇東洋(やまわきとうよう)


山脇東洋(1705~1762)は上記で挙げた吉益東洞とほぼ同じ時代を生きた古方派の医師です。もともと古方派は後世方派と比較して革新的な気風があり、山脇東洋もまたその例外ではありません。


山脇東洋は1754年、京都において日本初となる人体解剖を行い、その成果を蔵志(ぞうし)にまとめて刊行しました。 この歴史的事実は非常に有名ですが、山脇東洋は傷寒論などの古文献の研究や翻訳でも実績を残しています。


吉益南涯(よしますなんがい)


吉益南涯(1750~1813)はその名が示す通り、吉益東洞の長男にあたります。父の吉益東洞を含め古方派は病気には何か病的な存在が関与していると考えていました。


一方の吉益南涯は毒の存在を認めつつ、毒の影響で身体内の気・血・水のバランスに異常が発生した結果として病気となると唱えたのです。 この考え方は今日の日本に広まっている気血水論の礎になっています。


花岡青洲(はなおかせいしゅう)


花岡青洲(1760~1835)は吉益南涯に師事して漢方医学を学ぶ傍ら、当時最先端のオランダ医学(蘭学)も習得していました。つまり、花岡青洲は漢蘭折衷派のトップランナーといえます。


花岡青洲の生きた江戸時代後期は後世方派の理論と古方派の実用性を融合させる運動が盛んになっていました。このような時代的背景が漢方と蘭学という異なる医学をまたがって学ぶ土壌を生んでいたのかもしれません。


花岡青洲は1804年に世界で初めて全身麻酔薬を施し外科手術(乳がんの摘出手術)を行ったことで有名です。この時に用いられた全身麻酔薬は蔓陀羅花を中心に構成された通仙散(別名:麻沸散)というものであり、完成に約20年を費やしたといわれています。この通仙散開発のエピソードは小説「花岡青洲の妻(著者:有吉佐和子)」の題材にもなりました。


外科手術に関しては上記の乳がん摘出以外にも尿路結石の摘出や関節障害の治療もおこなわれました。くわえて花岡青洲は通仙散の他にも十味敗毒湯、紫雲膏、中黄膏といった今日でも用いられている漢方処方を生み出しています。


浅田宗伯(あさだそうはく)


浅田宗伯(1815~1894)は幕末から明治初期に活躍した折衷派の医師であり、江戸時代最後の漢方医学界の大家と呼ばれます。その腕は確かなものであり、徳川第14代将軍の家茂や後の大正天皇である明宮嘉仁の治療にもあたりました。時にはフランス公使の重い腰痛の治療を成功させてナポレオン三世から感謝の品が送られました。今日でも有名な浅田飴のもととなる処方を考案したのも浅田宗伯といわれています。


幅広い活躍から「江戸時代最後の漢方医学界の大家」と称賛されましたが、換言すれば浅田宗伯以降、漢方界を代表する医師はなかなか生まれなかったことを示しています。これは明治維新後、日本は近代化の一環としてドイツ医学を中心とした西洋医学を国定医学に採用したことが最大の理由です。浅田宗伯は人脈を生かしてこの決定を覆そうと奔走しますがその願いは叶いませんでした。


しかし、浅田宗伯が弟子たちの教材として普段から用いていた漢方処方とその効能を記した勿誤薬室方函口訣(ふつごやくしつほうかんくけつ)の評価は極めて高いものです。折衷派の浅田宗伯らしく勿誤薬室方函口訣には傷寒論や金匱要略以外の文献からも幅広く優れた処方が網羅されています。そして同書に収載されている漢方処方の多くは今日でも頻繁に用いられており、現在の漢方医学を支えています。


森道伯(もりどうはく)


森道伯(1867~1931)は明治時代から昭和初期にかけて独自の漢方医学体系である一貫堂医学(いっかんどういがく)を創始した治療家です。この「一貫堂」という名称はただ一人になっても漢方医学再興の道を貫くという意味が込められています。


森道伯の提唱した一貫堂医学においては個々人の体質を解毒証体質・臓毒証体質・瘀血証体質という三大証に分け、それらに対応する処方を多用しました。具体的には解毒証体質には柴胡清肝湯、荊芥連翹湯、竜胆瀉肝湯、臓毒証体質には防風通聖散、そして瘀血証体質には通導散が盛んに用いられました。


今日的な表現をすれば解毒証体質はアレルギー体質、臓毒証体質はメタボリックシンドローム体質、瘀血証体質は血行不良で顏色が赤黒く生理不順や生理痛に悩む女性に多い体質です。これらの体質は固定的なものではなく、例えばひとりの人間が「解毒証体質と臓毒証体質の傾向を半々でもっている」と捉える場合もあり、各処方を調節したものが実際には使用されていました。


これらの病気や症状は現代においても大きな健康問題であり、一貫堂医学に基づいた治療を行っている信奉者は根強くいます。森道伯が「一貫堂」の名前に込めた意味とともにその医学は今も生き続けています。


和田啓十郎(わだけいじゅうろう)


和田啓十郎(1872~1916)は明治時代から大正時代にかけて活躍した漢方医です。和田啓十郎は幼少の頃、姉の病気が漢方薬によって回復する姿を目の当たりにして漢方の道を志しました。その後の日本は近代化が急速に進み、日清戦争にも勝利した結果、社会全体の西洋化の流れはもはや止めることのできないものになっていました。


漢方医学もこの潮流に押し流され、風前の灯ともいえる状態に追い込まれます。そんな中、和田啓十郎が1910年(明治43年)に著した医界之鉄椎(いかいのてっつい)は瀕死状態の漢方医学の重要性を社会に訴えました。同書は大きな反響を呼び、それまで細々と生きながらえてきた漢方医学復興の橋頭堡となります。


湯本求真(ゆもときゅうしん)


湯本求真(1876~1941)もまた前出の和田啓十郎と同じ時代を生きた漢方医です。湯本求真は和田啓十郎が著した医界之鉄椎を読み漢方の道を志しました。1927年(昭和2年)に刊行した皇漢医学(こうかんいがく)は日本のみならず中国でも高い評価を得ました。


湯本求真は実際の治療においては傷寒論・金匱要略に収載されている処方を多く用いたといわれています。これはやや憶測も入りますが湯本求真の漢方の師は尾台榕堂(おだいようどう)といわれ、同氏の師を遡ると古方の大家、吉益東洞に行き着くからかもしれません。


湯本求真のもとには多くの弟子が集まり、下記の大塚敬節のように漢方医学の復興運動を展開しました。西洋医学の大波によって漢方医学が押し流されてしまった時代の中で、湯本求真のまいた種は次世代で結実してゆきます。


大塚敬節(おおつかけいせつ 又は よしのり)


大塚敬節(1900~1980)は昭和の時代を代表する漢方医です。無論、昭和の時代の医学部教育は西洋医学を基盤にしたものでした。大学を卒業して医師になった大塚敬節は漢方医学に興味を持ち、上京して湯本求真に師事しました。そこで主に古方派として漢方を学び傷寒論と金匱要略の研究を続けました。独立後は東京で修琴堂大塚医院を開設して治療を行いつつ、精力的に漢方医学復興運動にも注力しました。


この運動は実を結び、浅田宗伯の時代以降、長く低迷していた漢方は途絶えることなく再評価され今日も生き続けています。1950年代後半には漢方薬の有効成分を抽出して得られるエキス製剤が発明され、その服用や管理のしやすさから漢方薬普及の大きな後押しにもなりました。


やや余談になりますが大塚敬節は50代の前半、高血圧症による眼底出血や頭痛に苦しんでいました。いくつかの処方を試すもうまくゆかず、とうとう自身の創作した処方によって失明を免れたと語っています。この処方は四物湯(地黄、芍薬、当帰、川芎)に釣藤鈎、黄耆、黄柏を加えたもので、後に七物降下湯(しちもつこうかとう)と命名されました。


この七物降下湯は今日の医療現場でも用いられており、エキス製剤としても製造されています。したがって、七物降下湯は生まれてまだ半世紀少々しか経っていない「日本において最も若い漢方薬」といえます。


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文・女性とこどもの漢方学術院(吉田健吾)