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わかりやすい漢方薬解説・漢方理論解説

漢方医学を築いた先人たち (2)

日本に中国伝統医学が導入され始めたのは紀元後400年頃の大和時代、朝鮮半島を経由して始まったとされています。その後は遣隋使や遣唐使に代表される中国との直接的な交易も介して知識の輸入が行われました。時代は進み室町時代になると模倣一辺倒に近かった日本の医学にも変化が訪れます。


田代三喜(たしろさんき)


日本に初めて中国伝統医学が上陸してから1000年以上の時を経た16世紀、室町時代の医師である田代三喜(1465~没年不明)は中国(当時は明)に約10年、留学しました。田代三喜は明で金元時代に発展した李朱医学を学び、その知識を日本に導入した人物として有名です。「李朱医学」とは李東垣(りとうえん)と朱丹渓(しゅたんけい)が提唱した医学を指します。


金元時代の医学は陰陽論、五行論、六気といった理論を臨床レベルに導入したという点で革命的なものでした。今風に表現すれば医学界のイノベーションが金元の時代に起こったということです。


田代三喜が日本に広めた李朱医学はその後の日本における漢方医学の礎となりました。この金元時代の医学は傷寒論や金匱要略の時代よりも経時的に「後」の流れなので、後世方(ごせいほう)と呼ばれます。したがって、田代三喜は後世方派の元祖といえる存在です。


李東垣(りとうえん)


李東垣(1180~1251)は金元時代を代表する医師です。元の名は李杲(りこう)であり、晩年に李東垣と号しました。李東垣は人々が病気になる原因は脾胃(消化器系)が弱まったためと考え、それを治すことを治療の核としました。簡単に表現すれば李東垣の治療方針は胃腸を元気にして病気を治したり、病気にならない身体づくりを行うことといえます。


この李東垣の考えを支持する一派は温補派や補土派と呼ばれました。なぜ「土」なのかというと、五行論における脾(ひ)は土のグループに属すると考えられているからです。


李東垣の代表的な著書に脾胃論(ひいろん)や内外傷弁惑論(ないがいしょうべんわくろん)が挙げられます。前者には今日の日本でも頻繁に用いられている半夏白朮天麻湯、後者には補中益気湯が収載されています。


朱丹渓(しゅたんけい)


朱丹渓(1281~1358)もまた金元時代をリードした医師の一人です。本名は朱震亨(しゅしんこう)でしたが、今日の浙江省の「丹渓」という場所で暮らしていたので「朱丹渓」と呼ばれるようになりました。


朱丹渓の治療方針は不足している陰を補うことで、相対的に亢進している陽を鎮めることにありました。よりシンプルに述べれば朱丹渓の治療は陰陽の崩れたバランスを回復する滋陰降火を基調としたものでした。この為、朱丹渓の治療方針を支持するグループは養陰派や滋陰派と呼ばれました。


曲直瀬道三(まなせどうざん)


曲直瀬道三(1507~1594)は日本に金元時代の医学、主に李朱医学を伝えた田代三喜の弟子にあたります。したがって、曲直瀬道三は田代三喜と並ぶ後世方派の代表的人物といえます。


曲直瀬道三は田代三喜の教えをもとに李朱医学を継承しました。その一方であまりに複雑な理論をシンプルに解釈して日本の風土に合う形に発展させました。医師としての実力も高く、時の権力者である毛利元就、織田信長、豊臣秀吉も曲直瀬道三を重用したといわれています。


くわえて曲直瀬道三の業績はその医学を教える学校である啓廸院(けいてきいん)を設立したことです。啓廸院の卒業生たちはその後も後世方派として活躍してゆきます。曲直瀬道三の著書である啓迪集も実用性の高い医学書として高い評価を得ています。


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文・女性とこどもの漢方学術院(吉田健吾)